誰にも解らなかった児童虐待

少年が虐待を受け、その後苦しみながら60歳になって回復した軌跡

両親 (前編)

僕の両親は特別な人だった。母がBPD、(境界型人格障害)父が(アスペルガー)だった。母は自分がちやほやされたい為幼稚園から僕を越境入学させ、礼拝堂があるカソリックの制服がおしゃれなスクールに通わせた。僕は近所の子供たちが通う普通の幼稚園に行きたかったが、一切無視。おまけに日曜日には英語とキリスト教の授業があった。もうその頃僕は感情がマヒしていた。喜怒哀楽がなく、怒りもしないし、泣きもしなかった。そんな状態でも父は全く僕と喋らない。1年間に2~3度話せばいいほうだった。

小学校に上がると母の妄想は(いい学校に行き将来は外交官になる)はどんどん膨らみ、僕に7つの習い事を強要した。
ヴァイウォリン、書道。絵画教室、体操教室、そろばん塾、学習塾、英語教室、僕はもうフラフラだった。そのうえ学校のテストで80点以下を取ると、母の暴言,身体的暴力が待っていた。

一度音楽のテストで66点を取ったことがあったが、答案用紙を見た母は錯乱状態になり、もう私の夢は叶わない。外交官になれないと三日三晩泣き続けた。まだちいちゃかった僕は必死に謝った。もう二度とこんな悪い点数は取りません、だから赦して。でも母は赦してはくれず、食事も作ってもらえなかった。そんなことが毎日続くのが僕の日常だった。忌まわしいことに、父はその一部始終を見ているくせにお母さんを苦しめるな。と母を庇った。

小学校での僕は、友達がいなかった。小学校3年生から毎日夜の11時まで勉強させられていたため、成績は良かったが運動が苦手で、おまけに水が怖くてプールに入れなかった。毎日夜遅くまで起きていておまけに小学校も越境入学だったので、朝が眠たくて授業中眠たそうにしていたので、担任の教諭は両手に水の入ったバケツを持たせ廊下に立たせた。見せしめとして。

おまけに母は自分が病院に行くとき一人では不安なので、習い事があると担任に言い訳をして僕を連れ出し、病院の診察室の前に待たせ「もし私が重い病気だったら、歩いて帰れないからね」と僕をも不安にした。やがて中学校に進学した。おかしな事に僕のストーリーに父親が出てこない。喋ったことがないからだ。


中学校も越境入学で、天下の名門エリートが集まる中学校に入学した。でももう僕は限界だった。学級委員には何もなれない。プールに入れない。跳び箱が跳べない。クラスの誰とも喋れない。そこでできたことと言えば、中学で理科のテストで192名中1番を2回取ったことだけだった。母はそんな時だけ喜んだ。成績が良かったためいじめには遭わずに済んだ。皆を見返すんだよ。といつも喋っていた。

中学3年生の時母がこの子はおかしいと言い出し、精神保健センターに出かけ脳波を取った。自律神経の激しい異常が見られ即大学病院の精神科に入院することになった。大学病院の精神科医が僕に言ったことは母親が(BPD)で廃人だということ。入院させても良くならないから、ほっておくしかないと言われた。ここにも父は出てこない。関心がない、面倒なことは嫌だ。係わりを持ちたくない。本人は意識してないようだが、何も考えていないようだった。病院に一度来たことがあるが、入院費のことだけだった。

僕は中学3年から本格的な入院生活が始まり、その後30代まで8年ほど精神科の病棟にいた。入院生活は死と隣り合わせだった。7人ほど患者さんが自死している。僕の親友も薬を飲んで死んだ。28歳だった。僕の目標だった人だ。僕が通信制の高校しか行けないのに対して、定時制に毎晩通い昼間はスーパーマーケットで働いていた。僕のことを大切にしてくれ、ビアガーデンに連れて行ってくれたり自宅に招いて裏ビデオを見せてくれたり、いろいろしてくれたのに。

僕は同じくうつ病定時制を出てドラッグストアで働いており、なおかつ車を持っている友人に乗り換えて仲のいいのを彼に見せつけた。でもそれは後からわかることだが強烈な共依存だった。僕の通う通信制の学校に彼も通いたがったが、僕が反対して彼を来させなかった。悲観した彼は「さよならだけが、人生さ。」と言って薬を飲んで自死した。ある日彼に電話をしたらお母さんが出てあの子死んじゃったんだよ。と泣きはらしたがらがら声で話してくれた。

この記憶は封印したまま15年たったが,EMDRをやった時にこみあげてきて、僕が彼を殺してしまったんだ。そう叫んで涙が止まらなかった。そんなことを父親に話したこともあるが、やはりすべて無視された。僕に父も母もいないも同然だった。僕が通信制の高校に通う時も心配も励ましもない。関心がないのだ。そのくせお前のためにどれだけ入院費がかかると思うんだ。とお金のことだけ話す。そのくせケースワーカーに相談するとか、なにもしない。他人と関われないのだ。