誰にも解らなかった児童虐待

少年が虐待を受け、その後苦しみながら60歳になって回復した軌跡

両親 (後編)

もう一人の友人の自死は飛び降り自殺だった。公立病院の精神科に入院していた時知り合った一つ違いの彼は強迫神経症だった。トイレに入ると出てくるのに6時間かかっていた。同じ部屋で生活をしたこともあるが、確認癖がひどく室内でおしっこをして、僕のスニーカーを濡らした。お母さんがきれいに洗うから許してやってくださいね。それしか言えない状況だった。僕はその時、重い知的障害の子供たちの施設で実習生として働いていた経験があるため、手でおしっこを雑巾で拭くのは慣れていたので、気にしませんよ。と答えたが、内心は怒りがあった。飛び降り自殺の現場は見てないが、集中治療室に運ばれる前のベッドに横たわる顔面蒼白の彼の顔は忘れない。看護師さんが安定剤の注射を打ってあげるから休みなさいと言われ、部屋に戻って眠った。

なんと今でもその病院に難病でかかっている。窓から彼が飛び降りたであろう場所が見える。ものすごく辛い。でも難病の治療には実績のある病院なので他に移るわけにいかない。決してトラウマへの再挑戦ではない。知り合う人が次から次へ自死していくので死にたい人が死ぬのだからしょうがないんじゃない、と僕も思っていた。そんな毎日を送っていたが8年間の入院で両親が病棟に来たのは1回だけだ。精神科にかかるのは僕ではない、両親だ、誰もそれに気付かない。

通信制高校は卒業したが、なかなか就職先が見つからない僕に父は食事のテーブルの上に新聞に折り込まれていたチラシを一度だけ置いて見せたことがある。当時僕は車の免許を持っていないのに車でなくては通えない遠いなおかつ印刷工の仕事だった。前日にお金のことであまりにも僕を責めるので俺の相談に一度くらい乗ってくれるのが親じゃないか。と僕が言ったのでその答えが紙切れ一枚のチラシだった。

父もギャンブル依存だった。退職金の2,000万円をパチンコで皆遣ってしまった。母は一人では何もできなくて、判断能力がなく、2度自転車で赤信号で突っ込み、2度両足を複雑骨折をしているし、頭を強く打って顔面が変形して、形成外科で修復手術を受けたり、絶対安静が1年続いたりした。父親は病院で母の付き添いをしていて家には戻ってこないので、ひとりでおかず缶詰を食べたり、御飯に黄な粉をかけて食べたりしていた。

話が前後するが、大学病院入院中は毎日苦しさを体を激しく動かすことでアドレナリン中毒になっていた。あまりの激しい運動のため卓球をしているとき床でスリップして後頭部を激しく打ち全治2か月の脳振とうを起こした。夕方医師の呼びかけで目が覚めたが、気を失っている間中、今何時ですかと喋っていたそうだ。2時になったらジョギングをしなければならないからだ。アドレナリンがないと精神的葛藤が強くいてもたってもいられなかったからだ。400mのトラック10周、野球場のクロスカントリー5周、壁に向かってキャッチボール50球そんなのがメニューだった。結局大学病院では治療は一切してもらってない。苦しいと言えば薬の処方があるだけ。薬の副作用で、体が薬疹だらけだった。担当の医師は何で良くならないかわからないと言っていた。時代が時代だった。医者は本人しか見ていない。家族病理の知識が全くなかった。

僕の初めてのアルバイトは清掃業だった。長い入院生活からちょっと良くなりようやく仕事に就いたのに、もちろん自分で見つけたパート清掃員だった。けれど母は、そんな仕事恥ずかしくて言えないわとだけ言い放ち僕をけなした。折角始めた清掃業だが、父が隣町の田舎町に一戸建てを35年ローンで買って引っ越すことになった。僕のアルバイトはどうなるんだ。通勤に2時間もかかる。朝 5:30に起きなきゃならない。父にそれを伝えたら、俺の夢だったんだ。そう言い放った。眠剤をたくさん飲んでいたため、寝るのは前日の7時半だった。仕事はなんとかできたが、電車の中で、眠ってしまい遠くまで乗り越すことはしょっちゅうだった。


そんな我が家で柴犬を飼うことになった。父は犬を溺愛し、ジャーキーとかチーズとか過剰に与え犬が病気になった。獣医はエサの与えすぎ、飢えるぐらい痩せさせろ。と指示を出し、父もそれを聞いていたにもかかわらず、家に戻るとチーズやドッグフードを犬に痩せないかん、痩せないかんと言いながら大量のえさを与えてるではないか。アスペルガーだ。言っている事とやっていることが違う。父親は人と関わることが一切できず車の免許が取れない。僕が原付の免許を取るように勧め、以後80歳まで原付に乗っていたが、一時停止はしないし、センターラインはオーバーするし、原付3台を全損する事故を起こし続けた。父親は趣味で洋蘭づくりをしていたが、腕はプロ級だった。新聞社4社の取材を受けている。しかし欠落している部分があり、認知に障害があった。

僕には双子の弟がいるが、生まれた時から別々に育ち、一緒に喋ったこともほとんどない。生まれてすぐ母の姉の家に養子に行ったので、虐待を受けずに済んで、今も2人の大学生の女の子の父親だ。そんな弟が中学2年生の時交通事故に遭い、頭蓋骨を骨折し危篤状態となり、今日明日がやまという時父は病院には来たが当時K町というところで研修中だったので病院にいたら研修に間に合わない。今すぐK町に戻ると言う。弟の命などどうでもいいのだ。

何年かが過ぎ弟が結婚することになり実家にはあいさつに来なかった。父親は実の親に嫁を紹介しないとは何事だと激怒した。危篤状態の時、研修に行こうとして平然としていたくせに、結局危篤の時は研修を休んだのだが、あれで課長になり損ねたわと言っていたくせに。母は実の姉(弟が養子に行った家)に子供のころ物凄い虐待を受けていて、叔父に言わせるとあまりにも虐待がひどいので、体を張って止めたと言っていた。そのせいでボーダーになったと思われる。買い物依存症過食症父親との共依存、そんな母も最期は胃ろうをしながら病院で生活していたが、腎臓結石があり病院が検査を怠ったため、石がどんどん膀胱にたまり膀胱鏡が入らないほどの結石で86歳で人工透析もすることができず、結局延命治療はできず、苦しみながら亡くなった。

父は大腸がんで体重が25キロまで痩せるまで病院でも検査もされず大量の下血とともに亡くなった。父親の時は葬儀のことやいろいろな病院の手続き、など懸命に動いたが、母の時は葬儀にも行かなかった。

今までの人生を振り返り、僕はすべてを自分でやった。今から30年前になかなか良くならない精神科の主治医に、きっと僕のような人がいるはず。その人たちとのグループワークそれしか治療法はない。と言っていた。教えられたのではない。自分でそう思いついた。主治医はそんなものはないな。と言っていたが、3年後ACグループに繋がり僕は回復した。自分で答えにたどり着いた。

両親も両親だが、安定剤の注射を一日3本, 一年半も打ち続け僕を膠原病にした医師の罪は重い。弁護士に相談したが下手に訴えたら、あなたは今難病で病院にかかっている。同じ系列の病院の医師を訴えるとあなたの治療に跳ね返ってきますよ。と相手にしてもらえなかった。ざっと今回文章にしてみたが、自分でもよくやったと思う。物事を深く考えることができるようになりそれだけが救いであり、僕の財産だ。学ぶという事がどういうことかが分かった。今度はそれを武器にする。