誰にも解らなかった児童虐待

少年が虐待を受け、その後苦しみながら60歳になって回復した軌跡

心の声 児童虐待

心の声

【若さ】

僕は年齢がもう60歳だ。けれど激しい虐待による後遺症で感情が麻痺していたため精神年齢は30代くらいだ。感情が回復したのは後に自助グループにでるようになった37歳の時だ。それで,若い人が乗るようなバイクにも乗っていて,交差点では車をすり抜け先頭に出て90キロくらいで飛ばしている。この前はある人に45歳くらいですか、と若く見られた。

【入院生活】
10代の頃、虐待がひどく混乱が激しかったため、精神科に入院させられ毎日安定剤の注射を3本打っていた。薬はホリゾンジアゼパム)が一番多くそれも一日に2回静脈注射と筋肉注射があって、あとはピレチアかイソミタールの筋注だった。その後イソミタールは飲み薬として0.3ミリグラムを15年処方された。。ホリゾンに至っては、毎食後の飲み薬と合わせると1日60ミリ摂取していた。
大量の薬のせいで、顔から体まで薬疹だらけで、血管は静脈が紫色にはれ上がっていた。もうどこにも注射を打つ場所がなく、太ももに注射されていた。

実家では物凄い虐待だったので、精神的に混乱しても仕方がなかったが、当時の主治医は虐待を見抜けず、世界的な名医と言われた人だったが、僕が両親に会ってくださいと何度も訴えたが、「そんなきめ細やかなことはしない」と相手にしてくれなかった。

膠原病発症】

お陰で白血球が減少しだし、膠原病と診断された。薬の使い過ぎで発病させたと気付いた医師は「もう来るな」と治療を放棄した。この時、医者は心底恐ろしいと思った。

20代のころはまだ膠原病の症状がひどくなかったので何とか働いていたが、高校を中退していたためなかなか就職できず、通信制高校に通いながらいくつものアルバイトを転々とした。

仕事はワーカホリックだったため一生懸命こなし評価は高かったが、子供の頃両親に少しでもボーっとしていると怒鳴られていたため、人の目が気になり恐怖心から休憩が取れず、頑張りすぎて結局過労で長続きできず1年続いたのが最も長い仕事だった。

【一人暮らし】

そんな僕が少しだけ楽になったのが、30歳の時交通事故に遭い慰謝料を150万もらい一人暮らしを始め、親元を離れてからだ。でもゆとりなんか全くなかった。いろいろな職種のアルバイトをひたすら続ける毎日だった。

助けてくれる身内や友達は誰もいなかった。

夜、睡眠薬を飲んで眠たくなってボーっとしてくる時が唯一の安らぐ時だった。
けれど睡眠薬の作用は翌日も残るので、2度交通事故を起こしている。
でも働かなければ食べていけなかった。

【治療者との出会い】

そんな中37歳の時運命的出会いがあった。朝日新聞児童虐待の特集があって、事例が載っていたが自分と共通するところが多く、すぐ新聞社に問い合わせ医療機関を紹介してもらい診察を受けた。

初診の時、ワーカーさんが話を聞いてくださったが、よく多重人格にならず生き残ってみえました。と涙をはらはら流しながら僕の半生を聞いてくれた。そのあと主治医の診察があり「5年みてください。これから仕事も続くようになるし、家庭も持てますよ。」と言われ僕は興奮で舞い上がった。

膠原病の再発】

そして治療法の一つであるACグループに参加するようになった。順調に2か月が過ぎた頃寒い中重労働の日給1万円のアルバイトをしたら、体調が急激に悪化し診察を受けたら膠原病の再発だった。
それ以来僕の人生は変わってしまった。アルバイトしかしていなかったため雇用保険にも入っていなかったし、何より症状がひどく膠原病科では「これからは、立ち仕事と運動は止めてください。」と宣告された。2度入院し日常生活ができるようになるのに5年かかった。

5年が過ぎたあたりからコンサートの企画運営のNPOのお手伝い、同人誌に参加、朗読の会、読書サークル、フリートークの会などに所属し、活動しながら生活保護を受けていた。

【両親の死】
そんな中3年前に両親が亡くなり実家の家が残った。忌まわしい場所に住むつもりはなく、売却してちょっとお金が入り生活保護が打ち切られた。だがそのお金も底をついてきた。

【仕事】

働かなければまた生活保護に逆戻りだ。しかも立ち仕事と、運動は禁止されている。パソコンはエクセルができない。様々なところに相談に行っても作業所を紹介される。一度行ってみたが、単調すぎてとてもできない。短時間でも立ち仕事なら求人があるが、今苦しい状況に追い込まれている。

母が人格障害、父がアスペルガー。すべてが狂っている中、これだけ長い間虐待が表に出なかった事例はないと言われた。そこを生き抜いてこうして回復を果たしつつある僕は、もう一つの仕事を成し遂げたと言ってもいいだろう。僕はもう十分やっている。

【心の声】
負の体験ではあるけれどこれだけの試練をくぐった人はそれほどいないと思う。
この体験を何とか生かせないか。
そんな僕の心の声を聴いてくれる人はいないだろうか。

児童虐待は知られているのか

児童虐待は知られているのか

自分のことで恐縮だが、10日前ほどブログを始めた。
と言っても最初のうちはアダルトチルドレン相談室に投稿した文章をそのまま載せているだけだが、虐待のことを書くとアクセスが7~8あるのだが、アディクションのギャンブル依存を載せたら、アクセスが1しかなかった。

一般の人は虐待と、それにまつわるアディクションには関心がないのだろうか。
そもそも世間の人は虐待の本質を知らないのではないか。

先日オレンジリボンキャンペーンに関わる行事として、ハーレーサンタとか言うものがあって、世間に対して啓発活動を行っていくと言うものだが、僕は体力もないしどうやって関わればいいか、ヨガの先生も活動をしているので、メールしてみたら「お金の寄付でいいよ」と言われてしまった。

そもそもオレンジリボンキャンペーンは子供を虐待から守りましょう、と言う運動でアダルトチルドレンには一切触れていない。
募金がメインなので、最初女性が1円でもいいよね。と話してきたので、子供たちの悲惨さを伝えたら、100円入れてくれたそうだ。

ここでも虐待の後遺症に関して触れていない。僕が活動している市会議員にその辺のことを訴えたら、邪魔しないでくださいね、と言われてしまった。

今の社会では本当のことを言っては駄目なのか。斎藤学先生もアダルトチルドレンが受け入れられずトラウマサバイバーと呼び名を変えて活動している。

このサイトでもそうだった。ACについてだ。福祉関係などの職業についている人はACが多いが、病名はと言うと特になにもつかない。せいぜい共依存的行動があるくらいだ。

でも医療機関でいろんなアディクションでボロボロになって、なおかつ感情鈍麻があるような人たちにはボーダーなどの病名が付く。

僕がクリニックに通いだした頃は、医学書にボーダーは治らないと記述があったため、主治医も本人に病名を告げるのをためらったが、今は治療すれば7年くらいで回復すると言われている。

ACを扱う精神科医はどうなのか。僕が著書を読んだのは以前も書いたが、斎藤学氏と信田さよこさん、ちょっと後から出てきたが、斎藤環くらいだ。

でも最初の頃、斎藤環氏はACに懐疑的意見を述べていた。あんまり読んでないのでその後斎藤学氏と一緒にパネルディスカッションをしたりして、考え方が変ったのかもしれない。

最近トラウマを扱う医師が急に増えてきた。地元でもEMDRを行うことが出来る医療機関が増えてきた。

昔は斎藤学医師もEMDRについては批判的で、あれは~ちょっと。と言う感じだったが今はどうなんだろう。

こうして周りを見てみると、虐待の本質が分かる人がいかに少ないかが分かる。
メディアも死なないと取り上げない。
でも東京はまだいい。相談機関がたくさんある。しかし地方に行くと精神保健センターくらいしか相談機関がない。そして相談員は、物凄く貧相だ。

アルコールとか、薬物とか摂食障害のサポートグループは全国にあるが、ACは心もとない。

アディクションの相談電話が2か所あるが、何の役にもたたなかった。

結局今の社会で虐待被害から回復するには、他人を頼っていては駄目だという事だ。

ブログでは毒親がよく使われている。母娘関係が多い。
言葉は違うが、根っこは同じだ。
僕にできることは、こうして文章にして世論に訴えていくことだけだ。

また気持ちがまとまったら、もっと深く考えてみたい。

今、誰か救世主が必要だ。

両親 (後編)

もう一人の友人の自死は飛び降り自殺だった。公立病院の精神科に入院していた時知り合った一つ違いの彼は強迫神経症だった。トイレに入ると出てくるのに6時間かかっていた。同じ部屋で生活をしたこともあるが、確認癖がひどく室内でおしっこをして、僕のスニーカーを濡らした。お母さんがきれいに洗うから許してやってくださいね。それしか言えない状況だった。僕はその時、重い知的障害の子供たちの施設で実習生として働いていた経験があるため、手でおしっこを雑巾で拭くのは慣れていたので、気にしませんよ。と答えたが、内心は怒りがあった。飛び降り自殺の現場は見てないが、集中治療室に運ばれる前のベッドに横たわる顔面蒼白の彼の顔は忘れない。看護師さんが安定剤の注射を打ってあげるから休みなさいと言われ、部屋に戻って眠った。

なんと今でもその病院に難病でかかっている。窓から彼が飛び降りたであろう場所が見える。ものすごく辛い。でも難病の治療には実績のある病院なので他に移るわけにいかない。決してトラウマへの再挑戦ではない。知り合う人が次から次へ自死していくので死にたい人が死ぬのだからしょうがないんじゃない、と僕も思っていた。そんな毎日を送っていたが8年間の入院で両親が病棟に来たのは1回だけだ。精神科にかかるのは僕ではない、両親だ、誰もそれに気付かない。

通信制高校は卒業したが、なかなか就職先が見つからない僕に父は食事のテーブルの上に新聞に折り込まれていたチラシを一度だけ置いて見せたことがある。当時僕は車の免許を持っていないのに車でなくては通えない遠いなおかつ印刷工の仕事だった。前日にお金のことであまりにも僕を責めるので俺の相談に一度くらい乗ってくれるのが親じゃないか。と僕が言ったのでその答えが紙切れ一枚のチラシだった。

父もギャンブル依存だった。退職金の2,000万円をパチンコで皆遣ってしまった。母は一人では何もできなくて、判断能力がなく、2度自転車で赤信号で突っ込み、2度両足を複雑骨折をしているし、頭を強く打って顔面が変形して、形成外科で修復手術を受けたり、絶対安静が1年続いたりした。父親は病院で母の付き添いをしていて家には戻ってこないので、ひとりでおかず缶詰を食べたり、御飯に黄な粉をかけて食べたりしていた。

話が前後するが、大学病院入院中は毎日苦しさを体を激しく動かすことでアドレナリン中毒になっていた。あまりの激しい運動のため卓球をしているとき床でスリップして後頭部を激しく打ち全治2か月の脳振とうを起こした。夕方医師の呼びかけで目が覚めたが、気を失っている間中、今何時ですかと喋っていたそうだ。2時になったらジョギングをしなければならないからだ。アドレナリンがないと精神的葛藤が強くいてもたってもいられなかったからだ。400mのトラック10周、野球場のクロスカントリー5周、壁に向かってキャッチボール50球そんなのがメニューだった。結局大学病院では治療は一切してもらってない。苦しいと言えば薬の処方があるだけ。薬の副作用で、体が薬疹だらけだった。担当の医師は何で良くならないかわからないと言っていた。時代が時代だった。医者は本人しか見ていない。家族病理の知識が全くなかった。

僕の初めてのアルバイトは清掃業だった。長い入院生活からちょっと良くなりようやく仕事に就いたのに、もちろん自分で見つけたパート清掃員だった。けれど母は、そんな仕事恥ずかしくて言えないわとだけ言い放ち僕をけなした。折角始めた清掃業だが、父が隣町の田舎町に一戸建てを35年ローンで買って引っ越すことになった。僕のアルバイトはどうなるんだ。通勤に2時間もかかる。朝 5:30に起きなきゃならない。父にそれを伝えたら、俺の夢だったんだ。そう言い放った。眠剤をたくさん飲んでいたため、寝るのは前日の7時半だった。仕事はなんとかできたが、電車の中で、眠ってしまい遠くまで乗り越すことはしょっちゅうだった。


そんな我が家で柴犬を飼うことになった。父は犬を溺愛し、ジャーキーとかチーズとか過剰に与え犬が病気になった。獣医はエサの与えすぎ、飢えるぐらい痩せさせろ。と指示を出し、父もそれを聞いていたにもかかわらず、家に戻るとチーズやドッグフードを犬に痩せないかん、痩せないかんと言いながら大量のえさを与えてるではないか。アスペルガーだ。言っている事とやっていることが違う。父親は人と関わることが一切できず車の免許が取れない。僕が原付の免許を取るように勧め、以後80歳まで原付に乗っていたが、一時停止はしないし、センターラインはオーバーするし、原付3台を全損する事故を起こし続けた。父親は趣味で洋蘭づくりをしていたが、腕はプロ級だった。新聞社4社の取材を受けている。しかし欠落している部分があり、認知に障害があった。

僕には双子の弟がいるが、生まれた時から別々に育ち、一緒に喋ったこともほとんどない。生まれてすぐ母の姉の家に養子に行ったので、虐待を受けずに済んで、今も2人の大学生の女の子の父親だ。そんな弟が中学2年生の時交通事故に遭い、頭蓋骨を骨折し危篤状態となり、今日明日がやまという時父は病院には来たが当時K町というところで研修中だったので病院にいたら研修に間に合わない。今すぐK町に戻ると言う。弟の命などどうでもいいのだ。

何年かが過ぎ弟が結婚することになり実家にはあいさつに来なかった。父親は実の親に嫁を紹介しないとは何事だと激怒した。危篤状態の時、研修に行こうとして平然としていたくせに、結局危篤の時は研修を休んだのだが、あれで課長になり損ねたわと言っていたくせに。母は実の姉(弟が養子に行った家)に子供のころ物凄い虐待を受けていて、叔父に言わせるとあまりにも虐待がひどいので、体を張って止めたと言っていた。そのせいでボーダーになったと思われる。買い物依存症過食症父親との共依存、そんな母も最期は胃ろうをしながら病院で生活していたが、腎臓結石があり病院が検査を怠ったため、石がどんどん膀胱にたまり膀胱鏡が入らないほどの結石で86歳で人工透析もすることができず、結局延命治療はできず、苦しみながら亡くなった。

父は大腸がんで体重が25キロまで痩せるまで病院でも検査もされず大量の下血とともに亡くなった。父親の時は葬儀のことやいろいろな病院の手続き、など懸命に動いたが、母の時は葬儀にも行かなかった。

今までの人生を振り返り、僕はすべてを自分でやった。今から30年前になかなか良くならない精神科の主治医に、きっと僕のような人がいるはず。その人たちとのグループワークそれしか治療法はない。と言っていた。教えられたのではない。自分でそう思いついた。主治医はそんなものはないな。と言っていたが、3年後ACグループに繋がり僕は回復した。自分で答えにたどり着いた。

両親も両親だが、安定剤の注射を一日3本, 一年半も打ち続け僕を膠原病にした医師の罪は重い。弁護士に相談したが下手に訴えたら、あなたは今難病で病院にかかっている。同じ系列の病院の医師を訴えるとあなたの治療に跳ね返ってきますよ。と相手にしてもらえなかった。ざっと今回文章にしてみたが、自分でもよくやったと思う。物事を深く考えることができるようになりそれだけが救いであり、僕の財産だ。学ぶという事がどういうことかが分かった。今度はそれを武器にする。

 

両親 (前編)

僕の両親は特別な人だった。母がBPD、(境界型人格障害)父が(アスペルガー)だった。母は自分がちやほやされたい為幼稚園から僕を越境入学させ、礼拝堂があるカソリックの制服がおしゃれなスクールに通わせた。僕は近所の子供たちが通う普通の幼稚園に行きたかったが、一切無視。おまけに日曜日には英語とキリスト教の授業があった。もうその頃僕は感情がマヒしていた。喜怒哀楽がなく、怒りもしないし、泣きもしなかった。そんな状態でも父は全く僕と喋らない。1年間に2~3度話せばいいほうだった。

小学校に上がると母の妄想は(いい学校に行き将来は外交官になる)はどんどん膨らみ、僕に7つの習い事を強要した。
ヴァイウォリン、書道。絵画教室、体操教室、そろばん塾、学習塾、英語教室、僕はもうフラフラだった。そのうえ学校のテストで80点以下を取ると、母の暴言,身体的暴力が待っていた。

一度音楽のテストで66点を取ったことがあったが、答案用紙を見た母は錯乱状態になり、もう私の夢は叶わない。外交官になれないと三日三晩泣き続けた。まだちいちゃかった僕は必死に謝った。もう二度とこんな悪い点数は取りません、だから赦して。でも母は赦してはくれず、食事も作ってもらえなかった。そんなことが毎日続くのが僕の日常だった。忌まわしいことに、父はその一部始終を見ているくせにお母さんを苦しめるな。と母を庇った。

小学校での僕は、友達がいなかった。小学校3年生から毎日夜の11時まで勉強させられていたため、成績は良かったが運動が苦手で、おまけに水が怖くてプールに入れなかった。毎日夜遅くまで起きていておまけに小学校も越境入学だったので、朝が眠たくて授業中眠たそうにしていたので、担任の教諭は両手に水の入ったバケツを持たせ廊下に立たせた。見せしめとして。

おまけに母は自分が病院に行くとき一人では不安なので、習い事があると担任に言い訳をして僕を連れ出し、病院の診察室の前に待たせ「もし私が重い病気だったら、歩いて帰れないからね」と僕をも不安にした。やがて中学校に進学した。おかしな事に僕のストーリーに父親が出てこない。喋ったことがないからだ。


中学校も越境入学で、天下の名門エリートが集まる中学校に入学した。でももう僕は限界だった。学級委員には何もなれない。プールに入れない。跳び箱が跳べない。クラスの誰とも喋れない。そこでできたことと言えば、中学で理科のテストで192名中1番を2回取ったことだけだった。母はそんな時だけ喜んだ。成績が良かったためいじめには遭わずに済んだ。皆を見返すんだよ。といつも喋っていた。

中学3年生の時母がこの子はおかしいと言い出し、精神保健センターに出かけ脳波を取った。自律神経の激しい異常が見られ即大学病院の精神科に入院することになった。大学病院の精神科医が僕に言ったことは母親が(BPD)で廃人だということ。入院させても良くならないから、ほっておくしかないと言われた。ここにも父は出てこない。関心がない、面倒なことは嫌だ。係わりを持ちたくない。本人は意識してないようだが、何も考えていないようだった。病院に一度来たことがあるが、入院費のことだけだった。

僕は中学3年から本格的な入院生活が始まり、その後30代まで8年ほど精神科の病棟にいた。入院生活は死と隣り合わせだった。7人ほど患者さんが自死している。僕の親友も薬を飲んで死んだ。28歳だった。僕の目標だった人だ。僕が通信制の高校しか行けないのに対して、定時制に毎晩通い昼間はスーパーマーケットで働いていた。僕のことを大切にしてくれ、ビアガーデンに連れて行ってくれたり自宅に招いて裏ビデオを見せてくれたり、いろいろしてくれたのに。

僕は同じくうつ病定時制を出てドラッグストアで働いており、なおかつ車を持っている友人に乗り換えて仲のいいのを彼に見せつけた。でもそれは後からわかることだが強烈な共依存だった。僕の通う通信制の学校に彼も通いたがったが、僕が反対して彼を来させなかった。悲観した彼は「さよならだけが、人生さ。」と言って薬を飲んで自死した。ある日彼に電話をしたらお母さんが出てあの子死んじゃったんだよ。と泣きはらしたがらがら声で話してくれた。

この記憶は封印したまま15年たったが,EMDRをやった時にこみあげてきて、僕が彼を殺してしまったんだ。そう叫んで涙が止まらなかった。そんなことを父親に話したこともあるが、やはりすべて無視された。僕に父も母もいないも同然だった。僕が通信制の高校に通う時も心配も励ましもない。関心がないのだ。そのくせお前のためにどれだけ入院費がかかると思うんだ。とお金のことだけ話す。そのくせケースワーカーに相談するとか、なにもしない。他人と関われないのだ。